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★candleをご購入頂いた皆さん、ありがとうございました。
今年のキミに感謝する、来年の夢を記録する、thanks candle。次回もまた書いてください。
やがてこの輪は日本中に広がっていくと思います。
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71 の2
 どこまで書いた? 23時ショーが始まったとこ?
「11(イレブン)PM」を見たことがないという団塊の世代はいないんじゃないかな? テレビ初期の深夜のショー番組と言えばイレブンに尽きる。どちらかと言えば男性向けのテレビ番組だったけど、20年以上にわたって様々意味での『色気』を日本中にふりまいてくれた番組。女性であっても一度ならず目にしていただろうと想像。『色気』を扱いながら決していやらしくないところが『スゴイ』。この番組のエスタブリシュ、井原さん…我々から見れば大先輩にしてこの人の美学と言うかセンスと言うか、今の若いテレビマンに『見習え』とは言わないけど研究すべき対象であることは間違いない。残念なことに一度もお目にかかれるチャンスがなかった。
 片やフジの「トゥナイト」はやや影が薄かった。「トゥナイト」はテレ朝だろう、と言う方も多いと思いますが、ボクの記憶ではフジがこのタイトルを使っておりました。ただ正確ではありません。ややこの番組は薄幸で、何時のことかは記憶がありませんが「23時ショー」に敗れ「プロ野球ニュース」に代わってしまいます。
  さて71年4月に『23時ショー』は始まるわけですがはじめは月から木の帯。金曜日は大阪の毎日テレビ(当時の大阪のネット局はなんと毎日で東京が朝日系だから腸ねん転と呼ばれていた)の制作だから週4日のみ。スタッフは有馬さん(プロデューサー)を筆頭に二人のチーフディレクター・リュー(柳)さんと杉さん、はじめ社員スタッフのほかに我々のような番組契約者4名とアルバイト5名、総勢で21名の布陣。この時代には制作会社はそう多くはなかったし、と言うよりほとんど無かった。それでも4日制作で21名は大所帯と言える。司会はケーシー高峰さん、筒井康隆さん(作家)、北山修さん(フォーク・クルセダース)、神津善行さん(作曲家)、女性陣が天地総子さん、加賀まりこさん、草笛光子さん、ちあきなおみさん。もしかしたらどなたかを間違えているかもしれません。何せ40年以上も前のことでただただ記憶を頼りに書いていますので、失礼のある時はお許しをお願いします。でも、すごいでしょ。とにかくユニークですよね。何かが起きそうな予感はこのキャストを見ても分かるというもの。その上に放送作家に片岡直彦(通称、ナオ)さんを迎え、試行錯誤の中、議論、議論でスタッフは毎日のように朝まで喧々諤々やったもんです。勿論喧嘩もありましたがそれは目的のためであり、さわやかなと言ってよいものでした。特に企画会議ではアルバイトであろうとベテラン社員スタッフであろうと同等の立場で意見が言えたし、それは単なる意見ではなく決めれば実行されなければいけないものだったので、ボクにとっては『最初(企画)から作る』貴重な経験として今でも役立っています。
 そして、司会者のうち我々に一番年齢的にも近かった北山修さんは当初からワンクール(3か月)の約束でした。スタートした4月からそれは分かっていたもんですから有馬さんは4月から後任探し。あと2週間で7月と言うある日。スタッフルームの応接セットにやや小太りの、ちょっと見おっさんが座っていました。派手さはなく、どちらかと言えば地味な感じの人でした。お喋りでもなかったしね。この人こそ愛川欣也さんでした。北山さんのご紹介だったそうです。ボクはテレビに入って4年目で、すでにラジオを聞かなくなってしまっていたのでその人が人気のDJであることも知りませんでした。これも私の記憶ですが欣也さんはテレビの司会はこの時が初めて。その後のご活躍は私が申しあげるまでもありません。
 その時の仲間、川田さんが、もう10年くらい前だったかな、羽田か東京駅で偶然キンキンに会ったんだそうです。「有馬さんもリューさんも亡くなって、もうあの頃のことを知る人がいなくなったね〜」としみじみ言っていたそうです。その愛川欣也さんがこの4月、鬼界に入られてしまいました。時の無慈悲を嘆きたいのではありません。いつか我々も続かなければいけません。ボクにとっては僅か半年ほどのお付き合いでしたが、あまりにも見事な「消え方」と「記憶」に残るタレントとしての姿に手本としての感謝を申し上げたいと思います。(q)
 
posted by: q | Diary | 00:12 | comments(0) |-
71 の1
  71年を思い出すには70年から始めよう。
1970年と言えば『万博』。大阪の千里の丘で半年に亘って開催され、延べ6000万人が行ったというあれだ。ボク等の知る限りにおいて戦後最大のイベントだ。夏の暑い時期に「スター物まね大合戦」の録画のために千里に行ったけど、そしてリハを含めて3日くらいの大阪滞在だったけど、一度もパビリオンは覗けず。しょうがないよね。ほとんどの人はたった一つのパビリオンに入るためにほとんど一日を費やしていたんだから。万博ホールはガラスのホリゾンを持つ斬新な会場で、ガラスの向こうには噴水が仕込んであり、この噴水は様々な形に変化するという優れモンだった。この年、ボクは大学の4年生で、就職か留年か、二つの道のどちらかを選ばなければならないことになっていた。道は二つというものの、就職なんか困難で(テレビ局は採用がなく)ほとんど留年かと考えていた11月に、デスクのおっさんが「来年の春から深夜に帯で生のショウ番組を始める。ついてはお前もそのスタッフに推薦するから大学を卒業しろ」と言ってきた。当時のルールでは学生の留年は2年まで。それ以上留年するとアルバイトはクビ、と決まっていた。だから、就職できずに留年しようとしても猶予は1年だけ、だったので、この話は「ラッキー」
 大学にいったん戻り卒業し再びテレビに戻る。ストーリーは簡単でも、実際には卒業のため卒論を書かなきゃならない。50枚(400字詰めの原稿用紙で)?100枚だったかな。しかも締め切りまで90日。準備はもちろんゼロ。テーマも資料もないところから始めたのでインクレディブルでした。結局、大学には何しに行ったのかよくわからないまま卒業?したらしい。「らしい」と言うのは、実は単位が不足していたような気がするからだ。マッいいか。今となってはどうでもいいか。とにかく71年の3月には卒業証書を貰えたし、その1か月前には契約者としてその深夜の新しいショウ番組のスタッフに加えてもらえた。
(ここまで書いて、続きは明日と・・・。そしたら今日になりました。)
 「23時ショー」が始まったのは71年の4月第一週。裏には4の「イレブン」、8は「トゥナイト」。(数字は当時)10はまだ教育テレビだった。1,6,12は別にしてもこの時間帯3っつ目のショー番組だった。「23時ショー」は自分で言うのも変だけど、画期的な番組だった。今では夜の11時と言っても、それが深夜であっても『だから…何』って感じ。当時は夜の11時と言えば、まさに深夜。セブンイレブン(コンビニの)もまだないし、あっても11までの営業だし、今大変なことになっているマクドナルドも初出店前夜。家にいたって『もう寝なさい(寝ましょ)』タイム。もっともボク等の世代は受験勉強やらなんやらで実は深夜は天国。ラジをの深夜放送を聞きながら朝まで?何してたんだろう? でも、世間は夜中。そんな時代。
 そんな時代の深夜のテレビに視聴者参加を持ち込んでしまったのだ。
続く(q)
 
posted by: q | Diary | 16:20 | comments(0) |-
ともしび が消えた
 春分の日も過ぎた。いつの間にか日も伸び、寒さも緩み始めている。時の速さを嘆くのではなく、元気出せ自分。と言ったって、何か悪いことがあったわけではないし、いつもと変わらぬ日々が続いているだけなんだけど。少しづつ体の動きが鈍くなって、こうやって老いと言うものが纏わり(マトワリ)つくのかな。少しだけブルー。1月の末から2月の頭にかけて会津若松、石巻、仙台を廻り、帰浜したところでダウン。「風邪と言うより疲労かな、暫くペースを落とそう」としたらこのありさま。廻りの皆様にはご迷惑をおかけして申し訳ないと思うけど。ですが、これが私の現実。気を張って、真剣に、明日と向き合いましょう。
 何から書こう?お知らせしなくちゃいけないことは山のようにあるのにどれから話せばいいのかな? 一月には東京キューバン、横浜音泉倶楽部のライブとビッグバンド系を聞き、2月はうちのas4Mのライブを芝のタワープリンスで開催、そうそう今週の末はas4Mの横浜ライブ『paradaise cafe(横浜・馬車道)』今回はベースのサリーさんに応援を依頼。男性のベースが初めて入ります。それだけじゃなくてサプライズ・ゲストも一名お願い。今日はそのリハも終了。後は本番待つのみ。ご予約は045-228-1668 パラダイスカフェへ。たまには見てね。
 あっ!お詫びもあった。カルロス君、またライブをキャンセル。今回は故郷のキューバ国、彼の田舎のサンティアゴ・デ・キューバで不幸があって、その対応のため急遽帰国となりました。そのため2月と3月のライブ全て、出演不可能になりご迷惑おかけしています。
スミマセン。月が替わればまた戻ってきますのでその後の予定はそれからですね。ホント、スミマセン。
 2月はゆっくり、しかし、やや残念。お先真っ暗。暗闇にともしび。
 「ともしび」だって。いまどき。ずいぶん昔、それこそ50年くらい前には「ともしび」と言う名の喫茶店が東京にはあって、確か歌声喫茶だったよな。そんな言われ方をしていたはずだけど。それが、横浜にはあったんだね。馬車道に。本町通のほうから一方通行を入って来ると、ほとんど尾上町に出る手前に常磐町とぶつかり、右へ曲がるとすぐ左側に喫茶「ともしび」はあった。歌声喫茶ではないけれど、(多分)50年近くはこの場所でコーヒーを毎日入れていたと思われる(多分)ご夫婦が入れてくれる、サイフォンでのコーヒーが何とも丸みがあっておいしかったな。店の感じはレトロと言えば近いかな。店でのケータイはもちろんだけど、店内では・・・(ここまでは3月19日 記)
ここまで書いて中断。気が付けば今日は4月7日。328のパラカフェも終わったし、桜も散った。先週は暑いくらいだったのに、週が明けたら冬戻り。今日は寒いな。で、なんだっけ? 何の話だっけ? 
店内でのあとは…パソコンだパソコンも使用禁止。今時ね。そこがいいでしょ。その「ともしび」にシャッター。いつからなんだろう。ともしびの入っているビルの建て替えかな。ともしびだけでなく隣の中華も店仕舞い。関内は戦後の復興が早かったから今となっては古いビルが多くて、つまり耐震強度にやや不安があるんだろう。と、勝手に想像。
そんなことじゃなくて、レトロな空間が一つ消えたことへのノスタルジーでもなくて、単にボクの居場所が一つ減ったってこと。
寂しいかって? また、探すさ。新しい場所を。(q)

 
posted by: q | Diary | 14:58 | comments(0) |-